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2013/03/13

正しい選択

精神科で働いていた時,死んでやると叫びながら目の前を走る女性が,
手すりを飛び越えた瞬間,手足が勝手に動いて柵を飛び越えた.
右腕で女性を抱き,左腕を柵にからめて助けを呼んだ.


行動が正しい選択だったのか,未だに疑問が残る.


骨髄移植のドナーに選ばれた時,
はじめて授かった子供が生後4ヶ月だった.
選択に迷いはなかった.

妻や両親に「なにかあったら頼む」と伝えた.
全身麻酔などで事故が起こる可能性はゼロではない.
でも,日常生活にも避けられない災害や事故が起こる可能性がある.

0.01%の確率で手術中に事故が起こると想定してみた.
移植を必要としている人は,移植をしなかった場合に,
99.99%の確率で死ぬのかもしれない.

白血球の血液型であるHLAが一致する可能性は,
他人の場合は10万人に1人の確率なので,0.001%.
奇跡に近いかもしれない.

移植を必要とする人が必ずしも死ぬ確率が高いとは限らない.
HLAが一致した人が骨髄バンクへ登録した人に複数人いたかもしれない.
全身麻酔以外にも感染症などのリスクがあるかもしれない.



それでも客観的にリスク対価値を考えて,選択をした.
選択しないというリスクは,
ボクの場合は特別な環境と文脈があって具体的にイメージできた.

白血病などによって子供を失った親,あるいは親を失った子供,
骨髄移植で子供の命を救うことができた親,あるいは親が生き返った子供.
移植で健康な身体を取り戻した後に再発して,亡くなった親あるいは子供.

ボクは中学生ぐらいの頃から何人かの人に会ったこともあるし,
会わなくても文章を読んだり,物語を聴いて知っていることもあった.
生きること,死ぬことは想像を超えているということは,想像できた.

感動や使命感というのとは,少し違った受け止め方をしていた.
献血とまったく同じ感覚で,協力できる人が善意で参加するボランティア.
移植がもたらす成果や感動体験などの見返りを,期待しないものだと思う.






少し話がズレるけど,震災後のボランティア活動にも似ていると思う.
自分が体験したことは正しく価値があるものだから他人もやるべき,だとか,
自分の貢献がどれだけの人に役立ったか伝えたい,という見え隠れする本音.

彼らの主張に共感はできないが,努めれば理解はできる.
ただ,あくまで個人の意見として胸に抱えていればいいのに,とは思う.
それもボクの個人的意見なので,これもまた黙っていればいいんだけど.

話を戻して,まとめる.

意思決定は感情にまかせ,行動は理性にまかせる.
意思決定を理性にまかせればリスクが無限に現れて行動できず,
行動を感情にまかせればリスクに対応できず意思は実現できない.


・・・まとめ方を間違えた.やり直し.


なんくるないさ.


誤解されているので補足するけど,「なんくるないさ」はその前に,
「まくとぅそーけー」という言葉が本来はある.
まくとぅは,文字では真と表す.

「くじけずに正しい道を歩むべく努力すれば,いつか良いが日が訪れる」
という定型句で,すべて楽観視しようという意味では,全くない.
人として正しいことをして,誠実で,努力したなら,何も心配ないよ.

何が正しいか,わからない.
だからこそ,
自分には誠実でありたいね.


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